同じ靴を履いてる

生活について

パピコと優しさと想像力

土曜日の雨予報が日曜日にずれこんだせいか、依然として酷暑、実家はどの駅に行くにも3kmほどの距離があるため、駅までの移動だけで汗が噴き出してくる。バス停近くのコンビニでパピコの梨味を購入し、片方をちゅーちゅー吸いながらもう片方を首に当てて涼を、つか冷を取っている。それでも日差しと湿度に負けそうになってしまう。

バスに乗って吉祥寺。本当は街の散歩でもしたいところだがこの暑さだし、いそいそと井の頭線に乗り換えて永福町。駅ナカの銀行で大金をおろし、この大金を戸田さんに納めに行く。大金を納めた見返りに新居の鍵をいただく。来週の入居なのでその時にもらえるものだと思っていたのだが、仲介会社と管理会社が一緒であるためか、早速入手することができた。とはいっても別に、鍵を早めに得たところで何がどうなるわけでもないのだが。それにしても初期費用にクレジットカードが使えないのはどうなんだ。ポイントを貯める大チャンスを逸する。まあ仕方ないよね。

早速いろいろと、住所変更の処理を行う。よく使う通販、Apple関連、カード会社、等々。ガス、電気、水道の開通申請を出し、ネット開通の申し入れを行い、転出届を入手したり、諸々の手続きを行う。そういえばいろいろ面倒だったなと今になって思い出す。免許の住所も変えなければならないし、公共料金の支払方法をクレジットカードに変更するだけでも書類の提出が必要なのだったような気がする。もっとも、こういう面倒くさい手続きも、ロールプレイング感があって嫌いじゃない。前も思ったな。おんなじようなことを。

 

コロナウイルス関連のニュースというか、ちょっとしたコラムのような読み物の中で、自閉症の娘が障害の特性もあってマスクがつけられず、マスクをつけている母親を見てもパニックになってしまうので親子共々マスクがつけられないため、外出時に白い目で見られるという記載があった。勉強になる。俺自身、マスクの流通がある程度正常に戻りつつある現状、それを装備せずに公共機関等を利用する人に対して、冷ややかな視線を送ってしまっていたかもしれない。想像力が足りなかった。

優しさについて考えている。ずっと考え続けていることだが、ここ最近特に、人に優しくするということについて考える時間が増えている。年齢のせいだろうか。そんなことはないんじゃないかな。コロナウイルスの影響か、あるいは目前に迫った生活環境の変化の予感によるものか。

吉野くん優しいねなどと言われたりして、いやそんなことねえですよの返しをする。そんなやりとりが幾度となくあった。一般に、他人に興味がなく無干渉であり、無害である人間を優しい人と呼称する場合が多いように思う。一丁前に経験則。無論、これも優しさの一端である。しかしこれは消極的な優しさであって、優しくするという積極性に欠いている。心のない優しさは敗北に似てるとハイロウズが歌っている。割と、そういう気持ちに近いのかもしれない。俺は勝ちたい。心から優しくなりたいし、優しくしたい。それを本当に、ずっと考えている。そうして、先ほどのマスクがつけられない親子の記述を読み、ハッとさせられてしまった。人に優しくするには、想像力がないといけない。なんだ当たり前のこと。それなら俺も知ってたぜ。知ってたけど、実践できていたかというと、はたしてどうだか。少なくとも俺は、マスクをつけられない理由に関する知見が欠如しており、が故にノーマスクで電車内にいらっしゃるパッセンジャーに対し、いい思いをしていなかったのではないか。

昔、潔癖症が故に電車の座席に座ることができないという知人がいた。満員電車で目の前の座席が空いた際は、そこに座るのがマナーだと思っていた。お前一人分のスペースが空くのだからはよう座らっしゃいや阿保と、そう思っていた。潔癖症の方は座席に座ることも憚られるという知見が無かったのだ。これも想像力の欠如。その時も、同じように反省したのだが、結局実践できていないじゃない。

人に優しくすることの基盤は想像力で支えられており、想像力を働かせるには様々な知識と経験が必要であるらしい。一生モノの課題だ。このままでは最後まで人に優しくするということがわからねえと言って孤独に死ぬ未来が見える。負けねえ。勝つ。これからもずっと、人に優しくすることについて考え続けなければならない。想像力。イマジン。イマジンオールザピーポー。そうかレノン、そんな曲だったか。