同じ靴を履いてる

生活について

断酒と料理と抱き枕

酒を断って10日以上経つ。断酒による目立った効果も特にないが、先般始めた減量と合わせて、健康に対する意識の高まりは感じている。気のせいかもしれないが、暴飲暴食を繰り返していた以前に比べ、健康体になっているという実感はある。これまでの不摂生を改めているのだから、そうなっていてもらわなければ困る。もっとも、健康でない状態が長く続いていたため、不健康であることに対して特別不満があるわけでもないのだが、それでも健康であるに越したことはない。

断酒と同時に、カロリーを意識した生活も10日ほど経過し、徐々にではあるが体重も減ってきている。約63キロからスタートし、最終的に52〜3キロ程度まで絞れればいいと考えている。それにしてもなぜ自分が突然減量に思い至り、あんなに毎晩飲んでいた酒を断ってまでそれを実行しているのかが自分でもわからない。もちろんこれまでも痩せたい、痩せた方がいいとは常々考えていたし、パンパンに張った腹も、顔の輪郭が徐々にぼやけていくのも認めてはいたが、なぜ今なのかという明確な理由が自分自身把握できずにいた。あの時の身体を取り戻したい、健康体になりたい、Tシャツが似合うシュッとした感じになりたい、太っていると妙に幸福そうに見えるのが気持ち悪い、といろいろ痩せる理由をつけてみることはできるし、確かにいずれも的を射てはいるが、正直この程度の理由であればとっくに中野の『五丁目ハウス』に赴き家系ラーメンを海苔増しで注文して無料サービスのライスも当然のようにお願いしてスープに浸した海苔でライスを巻きながら掻き込んだ挙句に米が足りなくなって大盛りでお代わりをしていただろうし、夜には酒をガブ飲んで外国の子供が任天堂スイッチをプレゼントされて大喜びしている動画を酔った頭に染み込ませて感極まってワンワン泣いていてもおかしくない。つか、そうしている。そうしているはずなのに、まったく酒を飲みたいとも思わずに粛々と日々摂取カロリーを遵守した生活を営んでいるのは何事なのだ。といって色々考えてみると思い当たることがある。俺、もう食にも酒にも飽きているのかもしれない。正確に言えば、外食をして美味しいお店を見つけるという行為や、仕事終わりに自宅で自分の時間を取り戻すがごとく飲酒するという行為に飽いている。

インターネットを駆使してあそこのお店に行ってみよう、今度はあっちに行ってみよう、そうやってありついたラーメンも、カレーも、とんかつも、イタリアンも、ビストロも、いずれも美味い。それはもうめちゃくちゃに美味い店も多い。ただ、もはや美味さのあまりびっくりするということはなくなってきている。当初はあった。オイこんな美味いカレーがあってもよいのでしょうか、と驚嘆することもあったものだが、様々な店を食べ歩くうちにだんだんと慣れてきてしまう。インターネットの情報を元に評判のよい店に行き、その店の看板メニューをオーダーする。レビューから想像するにこんな味なんだろうな、の通りの味が口の中に広がって、満足して店を出る。美味しい。多幸感すら覚える。しかしそれ以上がない。驚けなくなっている。もちろん世の中は広く、俺をびっくりさせてくれる料理はまだまだごまんとあるだろうし、そんなことは当然に理解しているが、それを探しにいくモチベーションが現状無くなっている。自分が大好きな店であのメニューを食べたいという欲求が無いとは言い切れないが、例えばそれを食した後の自分の心境を想像してみると極単純な満足感を得られるのみで、だったら別にいいかという気分になる。もうやり尽くした大好きなゲームをクリアし直す感覚に近いかもしれない。幸せな時間が流れることは約束されているが、今のところはやる必要がない。だからこそ、外食に対してモチベーションを保ち続けている人はすごいなと思う。たぶん、向いているのだと思う。単純な味の良し悪しだけでなく、味に対しての分析だったり、多角的に料理を捉えることができる人は趣味や職業として長続きするのかもしれない。

酒にしても同じで、一日酒を断ったところ、家で酒を飲む必要性が感じられなくなった。酒は楽しい。楽しいが、別に楽しくなるだけなので、だったら飲む必要が無い。

そういうわけで、目標体重に到達したらあの店に行ってあれを食べよう、いいお酒を飲んで酔いに頭を任せてみよう、という欲求がいまのところ全く無い。しかし外食をやめた分、当然自炊することが増えた上、まして今の世の中色々な娯楽が奪われた状態にあるため、外食に対してのモチベーションは下がっている一方で、食べることに対してより娯楽性を求めるようになっている。自炊は楽しい。そして自分の作ったものを食べるのも楽しい。外食で持て成される料理に比べれば手間もかかってはいないし工夫もされてはいないが、自炊した料理はどこまでも自分のための料理だ。外食ではそうはいかない。そこで提供される料理は俺のための料理では無い。

映画にしろ、小説にしろ、これは自分のために作られたのでは無いかと錯覚する作品というのがある。もちろん本当はそんなわけはない。それを鑑賞するすべての消費者に向けて作られた作品だから。しかしそんなわけはないにも拘らず、そう錯覚させられるほどの力を持った作品を何作か知っている。それによって俺は何度も救われたことがある。今のところ、外食で提供された料理に対して、そのような感覚を持てたことがない。

そこに行くと昔付き合っていた彼女が作ってくれた飯を思い出す。「美味しいね」などと言って食う、あれが最強かもしれない。何しろ俺のためが乗っかってくる。ありがたさに満ち溢れている。もっとちゃんと食えばよかったな。スーパードライで流し込んでいたピーマンの肉詰めも、2本目のワインの蓋を開けながら食べたナポリタンも。どんな外食より優れた最強の料理だったんじゃないの。ああヤバイ良いこと言っている。良いことであると同時にものすごい手垢がついた言葉。あ、こういうこと考えてる時に酒飲むんだっけ。で、ヘラヘラするんだっけ。女のぬくもりなんか思い出しちゃったりして。

そんな気持ちであぁ〜〜〜〜〜なんつってニトリに向かう。抱き枕を買いに。抱き枕欲しいなって気持ちは極稀に発生するのだけど、それはだいたい女のぬくもりが欲しいタイミングである気がする。平時であればその気持ちを認めた上で、多少女性に対して積極的になったりするのだが、コロナ禍の昨今、そのようなこともできないため人生で初めて抱き枕を買いにニトリに立っている。枕のコーナーに向かうも、抱き枕3種類、どれも在庫切れとなっていて笑ってしまった。みんな寂しいんだ。そこに抱き枕が置いてあっただろう空になった棚を見て、次に俺のために料理を作ってくれる子には絶対100%のリアクションを取ろうと思う。任せてください。