同じ靴を履いてる

生活について

挨拶と恥と挨拶

直に三が日が終わる。少年期より正月のどこか浮ついた感じが苦手だった。そもそも明けましておめでとうという挨拶がしっくりこない。平素は気さくな間柄であるにも拘らず、妙にかしこまってするあの挨拶がどうにも気恥ずかしい。皆「あけましておめでとう」に気恥ずかしさを感じているのだろうか。あらゆることに於いて渦中に在る人間は、己から、或は己等から発せられる恥に気付きにくい。あけましておめでとうの渦はあまりに巨大すぎる。皆、晴れやかな顔をして当たりまえのように例の挨拶を実行している。その晴れやかな顔は、当たりまえのように発せられる言葉は、本心からなのか。渦に入れなかった俺はせめてもの抵抗として、年が明けた瞬間家を飛び出して道路の中心で立ちションをするという愚行を高校の時分繰り返していた。あけましておめでとうに恥を感じてしまう以上、それに勝る恥であけおめ恥(あけおめち)を克服しようという、メインレースで摩った金を最終レースで取り返そうともがく競馬場で新聞を穴が空くほど凝視している親父とも似た巫山戯た精神構造のもとで行われた立ちションだったが、まったく何の救いにもならないことに気付き止した。もしも何かの拍子でこの記事を読んでいる中高生が在れば、こんな人間にならない為にも、あけましておめでとうの渦中に飛び込むべきであるとアドバイスしたい。なるはやで。あとクスリとかやったら駄目。

大晦日。侘びも寂びも存在しない部屋で十数年ぶりに手塚治虫の『火の鳥』を読みながら、ふと時計に目をやると零時を回っていた。どうやら2017年になったらしいという手応えのない事実。このような正月の迎え方があってもいい。明日は早起きしようと早めに床に就く。その夜、腰を痛めている祖母があまりにも辛そうにキャバクラで働いているのを客として目撃し、こんなところは辞めろと説得するも「お金がないのよおおお」と号泣し崩れ落ちる彼女をこちらも号泣しながら抱きとめるという地獄のような夢を見て、久しぶりに起床後に泣く。日付変わって元日に見た夢は初夢とは呼ばないという説が有力らしいので、この夢はノーカンにする。しかし気分が良いものではない。今年の祖母の容態が心配である。現状、腰を痛めたという報告はない。

 

年末は一泊で伊勢神宮まで簡素な旅行に行ったりもしたが、年が明けてからはひたすらだらだらしている。先日、はじめてラインのスタンプをいくつか買ってみて、中で「しりあがり寿のオメデタすぎるスタンプ」という正月ピンポイントで使えるスタンプを購入していたので、スパムのように知人に送るなどした、と言えばどれくらいだらけ切った正月を送っているか想像出来るだろうか。朝、映画を観に新宿へ向かい、少しぶらついた後帰宅し、だらだらと過ごし、だらだらに飽きたところで何か為さねばという衝動に突き動かされるように、近くの映画館のレイトショーに向かうという日が続いている。最近、衝動の矛先が映画館にしか向いておらず、端的にヤバい。

 

とにかく。年が明け2017年になったという事実は確かな情報らしい。生き抜く。願わくば充実させる。

 

末筆ながら、皆さんあけましておめでとうございます。共に生き抜きましょう。