同じ靴を履いてる

生活について

2016年映画ベストテン&ワースト

今年映画館で観た新作映画80本程度。ここ数年は大体こんなもんだと思います。そんなわけで早速。

 

ベスト

 

10位 青空エール

f:id:ysn_hyt:20161226002122j:plain

 

映画としてはテンポも悪いし、三木監督の演出はあんまり好きになれないことも多くて、文句を言い出したら切りがない映画なのだけど、どうしても嫌いになれないというか、寧ろ好き。応援する側の方にフォーカスしてはなしが進んで行くので、頑張れフェチの自分には響く。あと、間違いなく映画雑誌等でランキング入りするタイプの作品ではないため、なんとなくここに入れてあげたかった、という気持ちもある。

 


「青空エール」予告

 

 

9位 ロスト・バケーション

f:id:ysn_hyt:20161226003143j:plain

丁度シネコンでかかっているような公開規模が大きめの洋画がどうにも煮え切らない作品が立て続いていた時期で、それを吹き飛ばしてくれるような勢いに寄り切られた格好。ジャウム・コレット=セラ監督は毎回それなりに面白い映画を撮ってくれるものの、『エスター』以降ドンピシャでハマった作品がなかったので、今作は久々のヒット。いやこの部分いる? というくだりがあったりもするのだけど、それを補って余りある圧倒的なパワープレイと綿密に練られたグラフィカルな演出が素晴らしく、劇中、最高のタイミングで繰り出される最高の「ファックユー」で完全にエクスタシー。痛みもハッキリ伝わってくる生々しい映像、ビックリ演出もたまらない。映画館でびっくりしすぎて何度も椅子から飛び跳ねてしまった。

 


映画 『ロスト・バケーション』予告 

 

 

8位 イット・フォローズ

f:id:ysn_hyt:20161226003845j:plain

対象者をどこまでも追いつめ殺戮する”それ”。セックスをすることで”それ”がうつり、セックスをすることで”それ”をうつすことができる。この設定がめちゃくちゃ面白く、しかしアイディア一発で終わらせない奥行きもあった。いろいろと考察しがいがある。しかしそんなことより”それ”が怖くて怖くて仕方がない。でも笑っちゃうという絶妙なバランス。”それ”の追尾速度が走ったらとりあえずやり過ごせる程度、というもの映画を盛り上げる要素としてプラスに働いていた。不穏なBGMは確かに良かったが、多少うるさすぎるのはご愛嬌。監督のデヴィッド・ロバート・ミッチェルは今作が監督二作目で年齢も四十そこそこ。早く次作が観たい。

 


死ぬまで憑いてくる恐怖!映画『イット・フォローズ』予告編

 

 

7位 シン・ゴジラ

f:id:ysn_hyt:20161226004743j:plain

わざわざ俺が、という気持ちもあり入れようか迷ったものの、やっぱり相当興奮させられたので。特に何も言うことはないくらい語り尽くされている今作だが決して優等生タイプの映画ではなく、にも拘らずここまで評価されている。庵野お前。

 


『シン・ゴジラ』予告

 

 

6位 アイアムアヒーロー

f:id:ysn_hyt:20161226011731j:plain

ここ数年の日本映画で、ハリウッド映画と同じような土俵に立ちつつ、ここまでしっかり迫力があって面白かった映画は記憶にない。まずアクション映画として一級の出来で、その上で銃社会の国ではないゾンビ映画としてのオリジナリティも確保出来ているすごさ。正直舐めてかかっていたので叩きのめされた。

 


「アイアムアヒーロー」予告

 

 

5位 何者

f:id:ysn_hyt:20161226012147j:plain

この映画に対してこんなことを言うのはどうなんだろうという気持ちもありながら、「一周まわって」すごく面白かった。今を輝く若手俳優・女優の演技のアンサンブルは見物で、映画としての面白さがグンと増している。特に佐藤健は白眉。正直あまり好きな俳優ではなかったが、今作では完全にやられた。目で語る芝居の凄みを感じる。反面、せっかく役者陣が表情で語る素晴らしい演技を見せているのに、やや説明的すぎる台詞回しや展開も多く見られその点は残念だった。しかしそんなことは些事であり、みんなきちんと追い込まれたり、頑張ったりしていて、どこをどう切り込むかによって大分見え方が変わってくる映画であることには間違いないが、個人的にはとても好きな映画だった。

 


『何者』予告編

 

4位 ディストラクション・ベイビーズ

f:id:ysn_hyt:20161226012857j:plain

平成の菅原文太とでも言えば良いのか、柳楽優弥のスター感が半端じゃない。彼が画面に出ているだけで様になってしまう顔面力と佇まい。冒頭の柳楽優弥の顔面一発でKO。いかにも自主映画上がりという質感の映画で、説明等は大胆に省略されているのだが、そもそもこの映画に対して説明もクソもない。ただ純粋な暴力が描かれており、その純粋な暴力に対して意味規定と解釈で切り刻むネット住民等に対する激烈なカウンターをぶち込んでいる。素晴らしい。ヤバい奴はヤバい奴、暴力は暴力、それ以上でも以下でもない。それを表情で語り切ってしまう柳楽優弥。どうかしている。

 


映画『ディストラクション・ベイビーズ』予告編

 

 

3位 貞子vs伽倻子

f:id:ysn_hyt:20161226014907j:plain

今年に入った段階では一番期待をかけていた今作。実際観てみたら期待以上で恐れ入った。非常に漫画的なキャラクター配置になっているが、何も文句が出ないほど面白く、かつきちんと怖いところは怖かった。「バケモンにはバケモンをぶつけんだよ」は今年公開された映画の中でも一二を争う名台詞。ラストもそりゃそうなっちゃうだろ感が突き抜けていて最高。あとは特に『呪怨』シリーズはリアルタイムで観ていたのでこのような映画が作られたことに対する感謝の気持ちもある。どうしても上位に入れたかった。

 


映画『貞子vs伽椰子』予告編

 

 

2位 ヒメアノ〜ル

 

f:id:ysn_hyt:20161226015614j:plain

映画について書こうとするとどうしても核心に触れなければ語り尽くせない部分があるため割愛するが、この森田剛演じる森田という男がしばらく忘れられなかった。今でも思い出す。それくらいなんと言うか、刺さった。森田剛の怪演は言わずもがな。観賞後は「森田お前、どうして!」という気持ち。やるせない。ラスト森田が発するある台詞は涙無しでは語れない。

 


V6森田剛主演『ヒメアノ~ル』予告編

 

 

1位 この世界の片隅に

f:id:ysn_hyt:20161226020654j:plain

少しだけこのブログでも書いたが、この映画、一言で言えば奇跡で、現状全国あらゆる箇所で奇跡を目撃出来る状況になっている。喜ばしいことです。大変に。大袈裟ではなく、邦画史上に残る傑作。もう語ることはなにもない。何もかもが完璧であり、完璧が完璧を支えている。個人的に今年の映画館納めはこの作品にする予定。何度でも観れる。

 


映画『この世界の片隅に』予告編

 

 

と、まあ今年はやはり邦画が大変な当たり年で、ほとんどが邦画という結果。一応理由があって、どうしても近くのシネコンで映画を観ることがほとんどなため、公開規模が小さめの洋画をあまり観れていないという状況がある。来年はもう少し色んな映画館で映画を観に行けたらなあと思う。

 

また、選外になった作品でも今年は傑作が本当に多くて選ぶのに困った。例を挙げるとまず『ズートピア』。これは相当話題になったのでわざわざ俺が、と言う気持ちもあり選外。他、洋画だとアウシュビッツの悲劇を画期的なアプローチで描いてみせた『サウルの息子』、全編PC画面ではなしが進むのがフレッシュだった『アンフレンデッド』あたりは入れたい気持ちが強かったし、実際『青空エール』なんかよりどう考えても『サウルの息子』の方が映画としての出来は間違いなく上な訳だが、そこはなんとなく退いてもらった。

邦画だと綾野剛がとにかく最高な『リップヴァンウィンクルの花嫁』、高い頑張れ力を誇る『永い言い訳』を筆頭に、サイタマノラッパーでお馴染み入江悠監督『太陽』も良かったし、黒沢清の演出はどうかしてると感じさせられた『クリーピー偽りの隣人』、今年一番の大ヒット作『君の名は』ももちろん良かった。

一応劇場で鑑賞した映画のみを対象にしているので選出こそ出来なかったけれど『ちはやふる』も凄く良かったし、改めて今年は邦画が大当たりだったなあと。良い評判だけ聞いて観に行けなかった作品も多くあったし、来年も引き続き邦画には期待が持てそう。それにしても昨年の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』といい今年の『この世界の片隅に』といい、とてつもない傑作がぽんぽん出て来ている最近、逆に来年大丈夫なのかという不安はある。しかし多分、大丈夫なんだろう。

 

 

ワースト

 

大変な傑作が公開されている一方で、駄目な作品だってちゃんとある。

 

ワースト 真田十勇士

f:id:ysn_hyt:20161226024152j:plain

心底腹の立つ映画だった。観ていて本当に哀しかったし、憤りを感じたし、残念でならなかった。仮にもものづくりに携わっている方々が、この映画に見られるような志の低さで、虚構自体を題材にした映画を撮っていることが理解出来ない。嘘と真というお話を語る上でもっとも繊細で重要な問題を題材にしているんだから、せめて真面目に映画を作ってくれと思う。コメディ要素を入れるなとかそういう意味でなく、真面目にやってくれ、お願いだから。俺が死んで爆発してしまうから。

 


映画『真田十勇士』予告編(90秒)

 

 

本来ワーストって可愛げがある作品を推したいんです。例えば今年だったら『僕だけがいない街』なんかとても素晴らしい珍作になっていて、これは是非ワーストの称号をあげたいなと思っていたりしたのですが、この『真田十勇士』は本当に腹が立って仕方がなかったので止む無くワースト。他、可愛げがある珍作という意味では『キューティーハニー ティアーズ』という一体誰に望まれて今この時代にキューティーハニーの実写を撮ったのだろうかという誰得映画も素晴らしかった。映画館、オッサンしかいなかったぞ。

 

やはり見逃している作品も多くあるので来年はもう少し観に行けたらと思う一方、最近の生活だとこれ以上行くと本当に他のことに回す時間が少なくなってしまうので、まず生活基盤を変えた方がいいなという気持ちの方が強い。

それからいつも思うこと。世の中良い映画が公開されすぎじゃいないですか?

それでは。

はじめてのディズニーシー

12月10日。気温が完全に死んでしまっていて、宿酔の頭が重かった。友人と、友人と、友人の彼女と、俺と、友人の運転でディズニーシーに行った。わかりにくい。全員で俺含め四人。男の友人二名は中学・高校が一緒だった。友人の彼女は中学のみ一緒だった。狭い世界。狭い世界が狭い車中を圧迫している。友人の彼女は俺が中学卒業のタイミングで告白かまして振られている女性で、ああ狭い狭いな、なんか良い曲かけてくれと言う俺のプリーズにSOUL'd OUTの『ウェカピポ』をチョイスする友人、100点。中二の時は好きだったと言われ振られた。じゃあなんで今は駄目なんだ、と問い質す気にもならなかった。ただ、女ワケわかんねえなと思った。諸行無常。完璧に友人として後部座席隣同士座る俺らの間にウェカピポが流れる。これが諸行無常の響きなのか。このビートが。ライムが。食べる? と言って家から持って来たらしい大袋のハイチュウをくれた。食いながら、くっちゃらはぴはぴハイチュウってあれ、あゆだっけ、あややだっけ、などと考えていた。ああ、あややパピコだから、ハイチュウはあゆだ。あややパピコ、ハイチュウはあゆ、俺は友人、車中にはウェカピポ、諸行無常の響き、舞浜に着いた。

 

ディズニーシーは初めてだった。ランドの方にはそれなりの数、子どもの頃家族と行った。一度、父方の祖母と我々家族とで行ったことがあった。小学校の高学年、冬だった。エレクトリカルパレードを観るため屋外に待機していたとき、その日はとても寒かったため、俺のマウンテンパーカーのフードを祖母は文字通りの老婆心からか頭に被せて来た。当時俺は、フードを被ることがダサいと思っていて、被せられたフードを剥ぐ、被せられる、剥ぐ、という不毛を数回に亘り繰り返した。それから数年後、祖母は癌になり亡くなった。人がなくなると、ああしておけば良かったという後悔ばかりが募るものだなと当時思った。あのときそこまで意地にならずに、あの老婆心を純粋な優しさとして受け止める選択もあったなと。俺は今でもフードを被ることはダサいと思っている。

 

チケットを購入し、ゲートを通過する。通過させて頂いている、といった方が近い。これから何時間もの間、すべての愚行・徒事が「夢の国だから」というやんわりとした制止によって解決されてしまう空間にトリップさせられる。ここは夢の国だから。仰る通りで。パーク内のあらゆる箇所に偏在する夢、夢感、夢パワー、云々に押され気味になっている俺にとりあえず写真を撮ろうの号令。運命の綾で俺の女になっていない彼女を連れた友人が徐に自撮り棒を取り出す。見渡すと他にも多くの組(くみ)が棒を使用している。皆当たりまえのように自撮り棒にて写真を撮っており、誰一人として自撮り棒にて写真を撮っています、の顔をしている人間はいないように思えた。いや、いないのだ。ここは夢の国だから。それにしてもこの空間にその棒、相性悪くないですか。なんか黒いし、長いし、文明感? 果たして。そのようなことを考えている間にシャッターが切られ、自撮り棒にて写真を撮られています、の顔になってしまった。減点。「いやあお前、棒を使いこなすんだねえ」とコメント。嫌みっぽく響いていなければ良いが。後に送って頂いた写真、俺の顔だけ白飛びしていた。

 

酒を飲もう、飯を食おう、という提案。さしたる頻度ではないもののある程度の場数を踏んでいる友人たちが揃えて今日の混み方は尋常では無いと口を揃える盛況の中で、飯にありつくのにも相当な時間がかかるのであるが、さすがに考え抜かれているというか、ただ漫然と歩いている俺の目に飛び込んでくるすべてが俺を楽しませようというディテールの強かさ、抜かりない。そこにキリン生の相性たるや抜群で、成る程酒が飲めるというのはこの夢の国に於いて明らかにプラスであった。

 

その後、アトラクションを楽しむ。何れも順番待ちの長い列が出来上がっていたが、順番待ちこそ楽しめるような仕掛けが仕掛けられており、俺はパークにいる間一切のユーモアを捨てていた。一切人を笑わせようという発言はせず、ひたすら目に入ったものを、それに対しての極簡単な感想を、リアクションを、声としてだだ漏らしているだけの機械と化していた。ともすれば白痴。頭を悪くするテーマパークだなと思う。しかしそれがたまらなく心地好いんだから仕方がない。特に『海底二万マイル』というアトラクションが素敵だった。ネモ船長の指示を仰ぎつつ深海に行く全然使い物にならない俺。

 

帰り際。猛烈な疲労感とともに必ずやって来るあの哀愁はなんなのか。恥ずかしい。今なら俺は完璧な顔で写れるから自撮り棒を出せの提案。後に送られて来た写真は完全な逆光でまったく表情がわからなかった。帰途、不注意による信号無視で友人が警官に止められているのを後部座席でヘラヘラしながら見守る俺と、心配そうな顔をして見守る友人の彼女。現実が時間軸をも飛び越え交差して、思わず「映画みたいだね」と呟く。友人は警官から渡された用紙にペンを走らせていた。現実の音がそこにあった。

理解とスイミングスクールと逆涅槃

学校で、習い事で、仕事先で「わかりました」と言う俺の顔面に真の「わかった」が発現していた試しがあっただろうか。少なくとも今日一日、わかったものも、ことも、何もなかった。それでも今日だけで何度も「わかりました」と言い、わかったような表情を浮かべ、わかったふりをしてやり過ごした。この何一つわからない世の中でせめて言われたことに対してわかったふりでもしていなければ人とまったくコミュニケーションが計れなくなってしまい孤立してしまう。円滑につつがなく日々をやり過ごすための術として、なにがしかの態度で理解を示さなければ気狂い扱いされてしまう危うい綱を渡る術として、納得の表情と言葉を駆使して誤摩化し続けて生活している。

自分の存在がわからなくなった。小学校中学年くらいのことだったと思う。スイミングスクールに通っていた。在りもしない才能が見えてしまったのかコーチに引き抜かれ競泳の育成コースにぶち込まれていた俺は、平日はほぼ毎日練習をしなければならぬ状況に置かれていて、水の中で汗をかくほど猛烈に泳げ泳げの命令を被り続けていた。死ぬ思いであった。実際に一緒に練習していた少年は、50mを息無しで泳ぎ給えという命令に従いその中途、気絶していた。プールサイドに引き上げられ頬を張られ意識が恢復した後、何故か悪いことでもしたかのように申し訳なさそうにその後の練習を見学していた彼を見て、気絶したくねえなと思った。頬を張られたくないから。頬を張られた上であんな惨めな顔を晒したくはないから。気絶しないように練習していた。泳ぎが上手くなりたいから、速く泳げるようになりたいから、そんな感情は一切無く、ただ与えられた命令を気絶しないようにこなすことに尽力した。なんでこんなことをしなくてはならないのだと思った。最新ヒット曲の有線が流すWhiteberryの『夏祭り』が水の中にいる俺の耳にうっすらと聞こえる。この仕打ちは一体なんなんだ。この状況一体なんなんだ。つか俺、こんなことをする為に生まれて来たのか。なんで練習せにゃ、なんで泳がにゃ、なんで息止めにゃ、と、今まで生活の一部として当たりまえであった諸々が、啖呵を切ったかのように理解の範疇を飛び越えて行き、そしてその理解不能の事柄をこなしている自分が、自分の存在が、理解出来なくなった。哲学した。記憶にある限りこのとき初めて俺は俺の存在について哲学した。

俺は何の用があって生きているのか興味を持つようになった。小学校の卒業文集にも、そのようなことを記してあった。少なくとも気絶しないよう泳ぐ以外に、何か世の中に用事があっていいはずだと思った。人並みに勉強したり、本読んだり、ギターを弾いたり、文章を書いたり、手淫をしたり、金を稼いだり、金を賭けたり、した。大学は哲学を専攻した。結局、何もわからなかった。俺は世の中に対して何の用事も見つけられなかった。ただ死ぬのは嫌だ。怖すぎるから。死は怖い。死そのものが怖いというより、生きている人間が生きていない状態に移行することが怖い。だから俺はこのように生きている。何の用事もなく。あまりにも用事がなさ過ぎるのである段階から、向こうサイドが俺に用事があるんじゃないかと考えるようになった。二十歳を過ぎてしばらくしてからのことだと思う。俺は特別信仰している宗教はないが、神様は信じている。厳密に言えば、神様のような何か大きな力を信じている。ときどきそれに祈ったり請うたり怒ったりする。その得体の知れない大きな力、向こうサイドの方が何か用事があって俺を召還したのではないか。この死なない限り漫然と続く、続いてしまう生の説明を自分の人生のこれまでとこれからに見出すこと能わず、しかし確かに存在する俺は何か用事があって存在しているのではなく、向こうが俺に用事があるからここに、こうして。そのように考えると、奇妙な納得感があった。これまで何もわからず、わかろうと努力し苦悶していた人生の用事も、存在の理由も、人間も、地も空も、金も女も、あらゆるわからないものが、わからないものとして腑に落ちた。世の理を覚ることを涅槃と呼ぶのなら、俺は逆涅槃の境地にあった。

帰り道。最寄りの駅から家まで自転車を走らせている間。空、夜、アスファルト、ガードレール、信号、トラック、人間、看板、街灯、木、缶、風、手袋、コンビニ、ひとつもわかるものがない、何もわからない。しかし歩み寄ることは出来る。何一つわからなくても、理解出来ずとも、それに歩み寄るという態度は忘れずにありたい。わからないものはわからないものとして受け止めながら。

大体の人間が他を理解しようとし、理解してもらおうとしているらしい。殊更にインターネット上、ストームのように渦巻く「わかるよ」と「わかって」のグルグルに巻き込まれて、マジで嘔吐く。マジエズ。マジエズがある。歩み寄ろう。何も理解出来ないし、理解出来るわけがない。ただ歩み寄ることを。因に私の口癖は「わかる」です。ありがとうございます。何もわからねえ。

 

土曜、東京ディズニーシーに初めて行く。何もわからない俺が。大いにはしゃぐ様を晒す。無益な買い物をする。後に書きます。書く予定であります。

『この世界の片隅に』とソリティア

何度か『この世界の片隅に』の感想を書こうと文章を途中まで書いて止める、消去する、という作業を繰り返している。公開初日、テアトル新宿を出て陽光の眩さに戦きながら交差点の向こうのローソンに足を運び一万円をおろした。財布の中にほぼ一銭も入っておらず、パンフレットが買えなかったから。もう一度映画館に戻りパンフレットだけ購入し外に出る。それでも武者震いが続いていて、映画のワンシーンワンシーンがストロボのように頭を駆け巡り、閃き、誰でもいい、誰とも知らぬ誰でもいいからこの身に頭に収まり切らない持て余した閃光を衝撃を感動をただひたすら打つけてやりたいという感覚。或はその結果何らかの形でそれを共有したい、させて頂きたいという欲求もありながら。しかしそれを実に遂行してしまうと完全に気狂い扱いされてしまうので、人目をを憚りながら 近くのビルに入り、トイレの中で呻くようにして泣いた。

鑑賞前後で、自分の世界に対する視線が、そこに映る景色がまるで変わってしまうような映画が時々ある。『この世界の片隅に』はまさにそういった映画で、どうにかしてこの感動を伝えたい、観れる環境にあるなら這ってでも観に行ってもらいたい、という迷惑な老婆心を働かせている一方で誰にも知られたくないという感覚もある。あの映画、俺だから。俺であり、俺の映画だから。恋人が他の男と話しているだけで嫉妬してしまう自分が女々しくて女々しくてツラいよ〜なんつって俺、『この世界の片隅に』に対する独占欲がほとばしっていて、誰の感想も評論も読むことなくじっとしている傍ら映画は大ヒットを飛ばしている。みんなの映画なのだ。みんなが俺の映画だ私の映画だと言っていて欲しい。

とにかくこの十日間程『この世界の片隅に』のことしか考えられていない。原作漫画も買い、読んだ。紙の本で買おうかと思ったが、いい機会だと思いディスプレイが壊れたまま放置していたKindleを修理してそれで読もうと考え、サポートセンターに電話すると若い男の声、前置きの「えー」と「あー」が異様なほど長く、異様なほど長いなと考えていたために訊かれたメールアドレスを二回読み間違え、その分「えー」「あー」に余計に付き合うことになったが、無料で新しいKindleを送って頂くということになり、二日で届いた。Kindleがある生活が戻って来た。感謝。

 

十二月に入っている。いろいろ書きたいことがあったはずなんだが、忘れてしまった。最近ソリティアのアプリを落とした。ヤバい。十二月に入ってソリティアをやっているようでは本当にヤバい。しかし何故ソリティアをやることをヤバいと感じるのだろうか。何も考えず無心でソリティアを楽しむ精神力もなく、怠惰として札を捲り並べながら焦燥に侵食されてゆくソウルを浄化するような規律も持てず、そうじゃねえだろの掛け声がこだまする脳内がほら、この空を切る腕の運動が何を求めてのものなのかも解らぬままここ数年、数十年。火焙りだ。火焙りだよお前なんかは。しかし生活がある。それでも続く生活があるのでファイトなのだ。『この世界の片隅に』みんな観て下さい。

風邪とアルコールと宿酔

身体が重い。季節が変わって来ている。寒い。そして熱い。風邪をひいた。本当であれば『この世界の片隅に』の感想を鉄を熱いうちに叩くがごとく書き殴りたかったのだがそうともいかないのは頭がぼうっとしてしまって考えるパワーが死んでしまっている。数日前ポケモンの新作が発表され今それをやりたい。それを無心でやりながら時間をどうにかこうにか、そういうところまで俺は弱っている。弱っているのにも関わらず弱っていない人間の顔をして今日もまた映画を観に行って来てしまい、かつて映画に日常を侵されていた頃の感覚を思い出し、二重に病気を患っている。

 

なぜこうも、身体が弱りかけのタイミングで遊びの誘いが立て続け襲ってくるのか。そしてヘラヘラしつつそれに乗っかる君の名は。大体俺が風邪をこじらすのは酒が原因のことが多く、身体が怠い、重い、だるおも〜な状態のときにアルコールがそれを消毒してくれた試しがない。弱った身体に回りが早いアルコールがもたらす酩酊に身を任せてもう一杯もう一杯とやっていると「今が10年後からタイムリープしてきた今日なんだよ」などとふざけ切ったことを隣、抜かしていやがるので「はー!!!」と天狗を演じる市原隼人のような声を発しつつ立ち上がり様テーブルに臑を勢いよくぶつけ俺は片脚を引きずるようにしてトイレに向かい鏡に映る自分の姿を10年振りに遭った旧友を見るような目つきで観察し、用を足し吐いた。口中に広がる酸っぱさと、既に風邪でやられている喉を胃酸がさらにやらかしてくれている。そっから云々かんぬん、家に到着し眠り午過ぎに起き、宿酔と悪化した風邪がバケモンにはバケモンをぶつけんだよの精神に則りボーイミーツガールして終わりなき三角締めを決めてくるので、とりあえず水を一杯、無性に塩気のあるものが食いたくて近くのファミリーマートに向かいカップ麺を2つとファミチキを買い、すべて一口食べて残してしまった。その後、当然のように吐いた。

 

と、それが昨日の話。本日の俺は。遅く起きた朝は。俺は震えるほど体調が優れない。気張って観に行った映画『ミュージアム』。ああそうですかといった内容で、俺は多分これからポケモンをダウンロードします。それでは。