季節と大人とチュッパチャップス
映画館によく行くので、当然に映画の予告編もよく観ることになる。最近は『ミュージアム』という小栗旬が主演の映画の予告をよく流している。11月12日公開。予告編で「この秋公開」と嘯いているが俺は今日、昨年の大晦日と同じ格好で外出している。もうそろそろ冬と言っても問題ない気温になっている。夜、風呂上がり外に出ると冬が匂っていることもあった。ただ、11月12日は秋らしい。わからなくはない。自分の中で季節は桃鉄基準になっていて、12月に入らないと冬という感じがしない。「社長のみなさーん! 12月ですよー!」というアイキャッチを挟んで黄金色だった画面が雪化粧されて初めて冬、もう赤マスには止まれない。現実にはそんな号令をかけてくれる人はいないので、季節の境目は斯くも曖昧である。ああ僕はいつごろ大人になるんだろうと武田鉄矢が唄っている。曖昧すぎる。桃鉄のように明日から大人ですよと号令をかけてくれる人がいたか。成人式。あれは一体なんなんだ。ウケるかと思ってハットを被り同級の友人と公民館に向かったが、渾身の冗談としてのハットがその人にとっての当たり前として消化され、存在がすべっている存在として久々に会う面々に半笑いで挨拶し挨拶されている恥ずかしさに耐えられず、しかしここでハットを脱ぎ片手に恥の象徴ぶら下げているというのもクソダサいという王手飛車取り状態の中、もう爆発してしまってもよいでしょうかの顔でトイレ脇にある給水器で水をガブ飲んでいる俺に果たして「新成人のみなさーん! 大人ですよー!」の号令は響いていたか。
ドラえもんがくれた御法度ハットを被った俺に「もしかして」と話しかけて来た男があった。まったく記憶がなかったので、え、あなた、誰の表情をしていると「寺師、オレ寺師、覚えてる?」と少し照れくさそうに笑っている寺師という男は10人中8人はイケメンだと認定するような好青年で、はいはいはいはい寺師、覚えてるよ、覚えてる。
寺師は幼稚園の同級生だった。背の低かった俺ら、背の順で前方の前後になることが多く、よく一緒に遊ぶ仲だった。寺師は優しい奴だった。どちらかといえばおっとりしていたが、サッカーをやっていたので俊敏でもあった。幼稚園の時分に自分の身を守るには、人を笑わせるか或はスポーツが出来なければならないので、寺師は優しくてスポーツが出来る奴として自分の居場所を確保していた。
寺師との最後の記憶。卒園間近、幼稚園の近くの団地の脇にある空き地に集まってちょっとしたピクニック、という名目のもと父兄の方々の親睦を深める集まり、のような会でのこと、屋外でお菓子を食べたりすることが出来るという特別感にやられて俺はその日かなりはしゃいでいた。各々が持ち寄ったお菓子を分け与えたり、分け与えられたり、つまり交換しつつそれらを頬張っていた。そこに寺師がいた。彼はもったいつけたようにチュッパチャップスチェリー味を虎の子のように見せびらかしていた。はしゃいでいた俺はウケるかと思って、そのチュッパチャップスチェリー味に包装紙の上からぱっくり行った。こういうエキセントリックな冗談も今日の俺は飛ばすぜの態で。ドン引きされていた。ドン引きされているときに起こる鈍色の沈黙があった。寺師と俺との間に。ややあって「これ、もう食べられないからあげるよ」と哀しそうな顔をして哀しそうな声色で言った。違うんだ。と思った。それではまるで俺があなたのチュッパチャップスチェリー味を奪おうとしている様ではないか、違うんだ、俺は飽くまで。包装紙を剥がせばまっさらなチュッパチャップスチェリー味がほら、ね、飽くまで、なんだ。ウケるかと思ったんだわかるか、ウケるかと思ってのエキセントリックなんだよ、という言い訳をしたくて仕様がなかった口にチェリー味いっぱい広がって、美味いんだチェリー味、そこからの記憶が一切ないくらいに。
それを思っている。ヘラヘラしながら「背ぇ伸びたなあ」などと言いつつ寺師に相対している俺は。このハットから発せられる違うんだの声に寺師お前気付いているか。気付いていただけているだろうか。別れの記憶と再会の記憶がまるで同じ思い出で閉じてしまう。寺師はなにも悪くない。ただ、寺師の前で悉く違ってしまう俺がすみませんなのだ。
そんな俺にも等しく号令は届いている。いたはず。酒を飲み、金を払い、酔っぱらった頭で唸りながら眠ったりする。それは多分、大人のすることだったような気がする。ただ何も変わってくれない。今も「違うんだ」が衛星のように俺のぐるりを渦巻いている。先日幼なじみの女の子と酒を飲みながら、ファッションは最終的に女子高生に降りてくるだとか『貞子vs伽倻子』の話などをしながら俺はずっと違うんだと思っていた。こんな話がしたいんじゃない。心の中では。マイクロフォンの中では。それでも大人は酒を飲み酒に酔う権利を有している。ありがてえ。大人とは、季節とは、何も理解出来ずに酒を飲んでいる。誤解を弁解する前に頑張った方がいい。それで良いのか寺師。
『となりのトトロ』感想
通算して宮崎駿監督作、スタジオジブリ制作作品のなかで一番回数を観ている。子供の頃にノーカット版のビデオが家にあったので「子供たちが外に出て遊びたくなるような映画を作ったのに却って家の中でビデオばかり観るようになってしまった」という宮崎駿のアイロニーを地で行くほどに繰り返し繰り返し観ている。買いっぱなしになって放置していたブルーレイをそのままにしておくのも何なので、たいしてトトロが観たい気分でもないのに見始める。トトロは何回も観ているが、トトロを観たい気分でない時に鑑賞するのは今回が初めてかもしれない。
子どもの時から何も変わっていない。ジブリ作品の中で一番好きなヒロインはずっと草壁サツキで、今回久しぶりに鑑賞して一層その感を強める。何故そんなにもと言いたくなるほど健気であり、殊勝である。そうありたい。俺はいつも草壁サツキに憧れていて、自分の中に辛うじて認められる草壁サツキ性を後生大事にしている。
徹底して控えめである。善き子を貫いている。善き子であらなければならないから。健気地獄の中で笑ったり駆け回ったり食事したりしている。殊勝なのだ、何もかもが。
入院している母親の見舞いの際、最初に母に駆け寄り抱きつくのはメイで、独楽を回して宙を浮くトトロに真っ先に飛びつくのもメイで、サツキはいつも後手後手で、トトロの腹にしがみつくのは許可の一瞥を受け取ってからだ。「私なんか」と「私だって」が入り交じった感情の表現、これを描き切れる宮崎駿は真っ当に変態なんだろうと思う。どうかしている。
アニメとしての面白さ。ひたすら動きまくり、動きまくるのがひたすら気持ちいい。夕暮れ時の異様な物悲しさと終末感、普段の行動範囲の外に出る高揚感と恐怖感、ストーリーライン以上に画の連なりが恐ろしいほどドラマチックかつダイナミックで、それだけで何もかもを語り切ってしまう超緻密なパワープレイ。トトロを観たい気分でなかった筈なのに、気付いたら沼に引きずり込まれている。つか、引きずり込まさせて頂いている。
映画のクライマックス、失踪したメイを探すサツキが最後にトトロを頼りに駆ける。茂みのトンネルの前で「トトロに会わせて下さい」と祈る。これこれこういう理由なのでどうか。渾身の祈り、渾身の許可、渾身のアポ。受け入れられる。会わせていただける。どうしてもあのシーンで涙ぐんでしまう。サツキはきちんとアポを取るのだ。俺はもっとアポを取るべきだ。アポ無しの地にトトロはいない。純からのアポ、心からのお願い、殊勝たる祈りが必要だ。サツキを見倣い、学ばなければならない。皆の心にサツキがあらんことを。お願いだからどうか。
ギャロップとノーベル賞
酔っぱらっていることを酔っぱらった頭で認めている俺の身体に充満している頑張れを、深海魚が放つ異様な発光と、何がいったいどうなってしまっているのだろう。一体どこから俺は途方もなく、一掬の愛、わかってくれの言動、諸々の諸行無常、欲求と後悔、残念と恫喝、チィース人生飴と鞭時代を乗りこなせギャロップ、毒を食らわば皿までの精神が死に体で、ひたすら睡眠不足と闘っているつもりになっていい気になっている、睡眠は足りていると言うのに、月が綺麗ですね、そんな馬鹿な話在るでしょうか。あってたまりますでしょうか。俺は『デスノート』を本日の昼下がりに鑑賞した映画館で。たくさん人が死んで俺は人が死んだことを認識しまくりのしまくりだ。しまくっている。しまくらせていただいている。そして酔っぱらう。で、で? 追いついてこない。雨が降っている。中華料理屋で帰り際に肉野菜炒めをオーダーしクソ塩っぱくて残した。本当にすみませんでしたの880円が5000円を払っている俺はLINEにて写メを写メる大たわけ者どもの一員であり、結局のところ何金ウシジマくんなんでしょうか。何金なんだその暴力が俺には意味わかんねえ。つか、意味わかってやれねえ。ホント、ホントなんだ。ホントの話なんて、ノーベル賞だよ。ノーベル賞。お前なんかもうノーベル賞だ。ビリビリに来ている。さっさと寝たい。ジェダイ。亀頭。馬鹿の一つ覚えみたいに。いいか、頑張れがここそこに溢れかえっている。聞こえるか。そこかしこ、頑張れだらけなんだ。だから頑張れ。頑張るエール頑張れエール。そいやって日々。そうやって日々をどうにかやって行こう。頑張れ。頑張って。頑張って頑張れ。
眼鏡と美少女キャラと三省堂書店
土曜のこと。山手線に乗って上野まで行く。先週作っていた眼鏡が仕上がったので取りに向かう。先週の自分と今週の自分は違う。何となく近場で作るよりは遠足気分を味わいたくて下町へ繰り出した先週は確かに気分がよかったが、それはもう過去の話で今週の俺は上野まで行くのが怠くて仕方がない。首を寝違えている。一日の疲れを取り除くはずの睡眠で身体を痛めている。阿保ちゃうんか。下町へ向かう。阿保、ちゃうんか。
KOOLと自殺
メンソールの煙草を買う。馬鹿じゃねえかと思う。KOOL。この世の終わりのように喉を刺してくるスースーが。スースーのやつが。メンソールは苦手だ。苦手を確認するために苦手をする。スースーを感じる。ヴェボラップを思う。あの薬は嫌いだった。ヴェボラップが嫌いだったのかヴェボラップを塗ってもらう時の体調の所為なのか。小学生のときヴェボラップを股間に塗っておほほほほほを感じた。その後やって来る痛みに悶えた。KOOLにはおほほほほほが無い。喉を刺す痛みしかない。ギルティ。ヴェボラップ。ノットギルティ。
KOOLを買うメンタル。何か満たされていない感覚。俺は何を欲しているのか。インターネッツ聞こえてますか俺はここにいるよの舞を舞うべきなのか。書き止しの小説が一章。この世はみんなゴミだぜWOW WAR TONIGHT、そうやってダンスばかり踊って毎夜を明かすことができたなら。しがみつく握力が足りない。たぶん女なのだ必要なのは。斯くの如くごまかす。どうかひとつ。
北海道から修学旅行で京都に来ていた女学生が電車に跳ねられ意識不明の重体になっている。警察は自殺の疑いが強いと見て調査している。どんなメンタルなんだ。人間がわからなすぎる。わからないがすぎる。わからないがすぎるので既ににわかろうとすることを諦めている。KOOLを吸ってくれ。女学生は。KOOLを吸うべきだ。自殺をする前にKOOLを吸って何故こんなものをと喉で感じて欲しい。人間と同じ位KOOLはわからない。救われろ。頼むから。そうあってくれ。