同じ靴を履いてる

生活について

『となりのトトロ』感想

通算して宮崎駿監督作、スタジオジブリ制作作品のなかで一番回数を観ている。子供の頃にノーカット版のビデオが家にあったので「子供たちが外に出て遊びたくなるような映画を作ったのに却って家の中でビデオばかり観るようになってしまった」という宮崎駿アイロニーを地で行くほどに繰り返し繰り返し観ている。買いっぱなしになって放置していたブルーレイをそのままにしておくのも何なので、たいしてトトロが観たい気分でもないのに見始める。トトロは何回も観ているが、トトロを観たい気分でない時に鑑賞するのは今回が初めてかもしれない。

 

子どもの時から何も変わっていない。ジブリ作品の中で一番好きなヒロインはずっと草壁サツキで、今回久しぶりに鑑賞して一層その感を強める。何故そんなにもと言いたくなるほど健気であり、殊勝である。そうありたい。俺はいつも草壁サツキに憧れていて、自分の中に辛うじて認められる草壁サツキ性を後生大事にしている。

徹底して控えめである。善き子を貫いている。善き子であらなければならないから。健気地獄の中で笑ったり駆け回ったり食事したりしている。殊勝なのだ、何もかもが。

入院している母親の見舞いの際、最初に母に駆け寄り抱きつくのはメイで、独楽を回して宙を浮くトトロに真っ先に飛びつくのもメイで、サツキはいつも後手後手で、トトロの腹にしがみつくのは許可の一瞥を受け取ってからだ。「私なんか」と「私だって」が入り交じった感情の表現、これを描き切れる宮崎駿は真っ当に変態なんだろうと思う。どうかしている。

 

アニメとしての面白さ。ひたすら動きまくり、動きまくるのがひたすら気持ちいい。夕暮れ時の異様な物悲しさと終末感、普段の行動範囲の外に出る高揚感と恐怖感、ストーリーライン以上に画の連なりが恐ろしいほどドラマチックかつダイナミックで、それだけで何もかもを語り切ってしまう超緻密なパワープレイ。トトロを観たい気分でなかった筈なのに、気付いたら沼に引きずり込まれている。つか、引きずり込まさせて頂いている。

 

映画のクライマックス、失踪したメイを探すサツキが最後にトトロを頼りに駆ける。茂みのトンネルの前で「トトロに会わせて下さい」と祈る。これこれこういう理由なのでどうか。渾身の祈り、渾身の許可、渾身のアポ。受け入れられる。会わせていただける。どうしてもあのシーンで涙ぐんでしまう。サツキはきちんとアポを取るのだ。俺はもっとアポを取るべきだ。アポ無しの地にトトロはいない。純からのアポ、心からのお願い、殊勝たる祈りが必要だ。サツキを見倣い、学ばなければならない。皆の心にサツキがあらんことを。お願いだからどうか。

ギャロップとノーベル賞

酔っぱらっていることを酔っぱらった頭で認めている俺の身体に充満している頑張れを、深海魚が放つ異様な発光と、何がいったいどうなってしまっているのだろう。一体どこから俺は途方もなく、一掬の愛、わかってくれの言動、諸々の諸行無常、欲求と後悔、残念と恫喝、チィース人生飴と鞭時代を乗りこなせギャロップ、毒を食らわば皿までの精神が死に体で、ひたすら睡眠不足と闘っているつもりになっていい気になっている、睡眠は足りていると言うのに、月が綺麗ですね、そんな馬鹿な話在るでしょうか。あってたまりますでしょうか。俺は『デスノート』を本日の昼下がりに鑑賞した映画館で。たくさん人が死んで俺は人が死んだことを認識しまくりのしまくりだ。しまくっている。しまくらせていただいている。そして酔っぱらう。で、で? 追いついてこない。雨が降っている。中華料理屋で帰り際に肉野菜炒めをオーダーしクソ塩っぱくて残した。本当にすみませんでしたの880円が5000円を払っている俺はLINEにて写メを写メる大たわけ者どもの一員であり、結局のところ何金ウシジマくんなんでしょうか。何金なんだその暴力が俺には意味わかんねえ。つか、意味わかってやれねえ。ホント、ホントなんだ。ホントの話なんて、ノーベル賞だよ。ノーベル賞。お前なんかもうノーベル賞だ。ビリビリに来ている。さっさと寝たい。ジェダイ。亀頭。馬鹿の一つ覚えみたいに。いいか、頑張れがここそこに溢れかえっている。聞こえるか。そこかしこ、頑張れだらけなんだ。だから頑張れ。頑張るエール頑張れエール。そいやって日々。そうやって日々をどうにかやって行こう。頑張れ。頑張って。頑張って頑張れ。

眼鏡と美少女キャラと三省堂書店

土曜のこと。山手線に乗って上野まで行く。先週作っていた眼鏡が仕上がったので取りに向かう。先週の自分と今週の自分は違う。何となく近場で作るよりは遠足気分を味わいたくて下町へ繰り出した先週は確かに気分がよかったが、それはもう過去の話で今週の俺は上野まで行くのが怠くて仕方がない。首を寝違えている。一日の疲れを取り除くはずの睡眠で身体を痛めている。阿保ちゃうんか。下町へ向かう。阿保、ちゃうんか。

眼鏡屋までふらふら歩く。首が痛すぎる。首が痛すぎるので首がなくなったらいいですよねそれってチョーウケません? 全然ウケませんか。そんな目をして歩いていたら正面からねずみ男のような男が明らかに俺を目指して歩いてくるのを確認、何なんですかの顔でそれを見守っていると「あなたもしかしてアレですか、アレ」と顔を覗き込みながら畳み掛けてくる。ふざけんなの無視。俺は来たくもない上野に来て首が痛すぎるんだから話しかけるなの表情。汲み取って頂けたのかそれ以上突っかかってくることはなかったが知らない人は知らないが故に基本的に怖いのでもう酒だよ酒。今日は土曜ここはアメ横。店外に設置されたテーブルには昼間から酒を飲むだらしのない大人がいて、俺だってだらしなくなりたいんだの飲酒。二、三人入っている名も知らぬ立ち飲み屋で。
その後何事もなく眼鏡を受け取り視界良好。感度抜群。帰りがてら池袋で下車。久々に来たがよく分からない美少女キャラのポスターが駅構内に横溢しており、何のキャラクターかわからない美少女キャラクターは純粋に可愛くて良いな何故ならば何のキャラクターかわからないが故に。おかげさまで美少女キャラの隅々までよく見える。雑味無しに。
西武デパートの中に入っている郵便局で用事を済ませ、旧リブロ、現三省堂書店を冷やかす。結局リブロでいやがるんだよ。経営が変わっただけで。店内の様相そのまんまリブロじゃんかよ、などと独りごちながら各フロアーを見て回った後、そういえば来週幼なじみの女の子と酒を飲んだり飲まれたりする約束をしていることを思い出し、幼なじみの女の子と久々に飲むのだから何か手土産があったらアレがああしてああなんじゃないかという目論みのもと、じゃあもうロフト。LOFTだよね。手土産と言ったら。しかしハロウィン清一色のハネ満聴牌の店内に決して振り込むまいという態度で手土産を選ぶどころではなく、大体にして手土産を持って行って何がどうなると言うのだ。幼なじみの最近別れた男が電通の社員らしい。ありがとうございます。ロフトで得ることの出来る手土産が切っ掛けにトリックオアトリートなんて馬鹿じゃねえのか。
電通の若い女性社員が自殺して労災認定がおりた。労働が厳しくて自殺ってどうなってるの。どうなっちゃってんだろう。休め。破竹の休暇を取得しろ。或は仕返しのつもりなのか。自らの生命を捧げた渾身の。いやしかし結局リブロなんだよ。三省堂書店に名を変えたリブロ。それが人間じゃないですか。我々は金閣寺じゃないんだから。頑張れ。つか、頑張ろう。そんな気持ちを抱えたまま豊島園に向かい観た映画、『永い言い訳』。良い映画だった。良い映画を完璧な視力で鑑賞した。何となくカープを応援してみようと思う。

KOOLと自殺

メンソールの煙草を買う。馬鹿じゃねえかと思う。KOOL。この世の終わりのように喉を刺してくるスースーが。スースーのやつが。メンソールは苦手だ。苦手を確認するために苦手をする。スースーを感じる。ヴェボラップを思う。あの薬は嫌いだった。ヴェボラップが嫌いだったのかヴェボラップを塗ってもらう時の体調の所為なのか。小学生のときヴェボラップを股間に塗っておほほほほほを感じた。その後やって来る痛みに悶えた。KOOLにはおほほほほほが無い。喉を刺す痛みしかない。ギルティ。ヴェボラップ。ノットギルティ。

 

KOOLを買うメンタル。何か満たされていない感覚。俺は何を欲しているのか。インターネッツ聞こえてますか俺はここにいるよの舞を舞うべきなのか。書き止しの小説が一章。この世はみんなゴミだぜWOW WAR TONIGHT、そうやってダンスばかり踊って毎夜を明かすことができたなら。しがみつく握力が足りない。たぶん女なのだ必要なのは。斯くの如くごまかす。どうかひとつ。

 

北海道から修学旅行で京都に来ていた女学生が電車に跳ねられ意識不明の重体になっている。警察は自殺の疑いが強いと見て調査している。どんなメンタルなんだ。人間がわからなすぎる。わからないがすぎる。わからないがすぎるので既ににわかろうとすることを諦めている。KOOLを吸ってくれ。女学生は。KOOLを吸うべきだ。自殺をする前にKOOLを吸って何故こんなものをと喉で感じて欲しい。人間と同じ位KOOLはわからない。救われろ。頼むから。そうあってくれ。

マカロンと鈴木雅之とリルラリルハ

生まれてから四半世紀経つ。年齢に対しての焦燥はそこまででもなく、ただひたすら寒い。もう冬なのではないかと思う。これが秋。もう冬なのではないかという感覚が秋。

この年齢になって初めてマカロンを食した。今までマカロンの存在を認めつつもそれから逃げて来た男が、先日『脳漿炸裂ガール』というボカロ曲原作の映画を観てからというもの日に日に募るマカロンに対する潜在的欲求を押さえきれず、ついに自分はマカロンを食すために生まれて来たのではないかという地点までいったところで、居ても立ってもいられなくなり深夜二時にファミリーマートに向かいそれを購入し胃に収め、そして僕の胃には今マカロンが在る。味がした。ひたすら甘かった。

四半世紀、という言葉を初めて耳にしたのは中学三年の時だった。四半世紀という字面はそれ以前にも見たことがあった筈だが、人の口から発せられるその言葉の発音を聞き取ったのが。鈴木雅之がテレビでシハンセイキと発音していた。鈴木雅之鈴木雅之の声で。

当時「sakusaku」という番組がテレビ神奈川でやっていて、東京を住処にしていた僕の家庭にもテレビ神奈川の電波が浸食していたのでそれ見ていた。ありがてえ。「sakusaku」には木村カエラが出演していたから。その頃の僕は木村カエラが好きだった。マジか。木村カエラが好きだったのだ。今でこそ電波にて木村カエラを確認しても「これは木村カエラである」以上の感想は出てこないが、中学三年の僕はリルラリルハであった。リルラリルハのPVが流れている間に二回抜いたことがある。会社の有線は2000年代以降のジャパニーズポップをひたすら奏でていて時々リルラリルハが流れると中学の時の木村カエラに愛撫されている感覚に襲われる。グリーンバックで首を振り髪を掻き乱す仕草に。

sakusaku」にゲストとして鈴木雅之が出演していた。木村カエラの隣にゴツいサングラスを掛けた色黒が座っていて、音楽に全く疎かった僕はただウケた。彼はラブソングを歌い続けて四半世紀と言った。そこにはリルラリルハが在った。そういう気概が欲しい。胃に収まっているマカロン。存在がマカロンに負けている。こんなリルラリルハが?