大江健三郎とノンフィクション・ペニス
最近、終わっている。最近という言葉の及ぶ範囲がどこまでなのかわからないが最近終わっているとずっと感じている。つまりずっと終わっている。終わっていなかったことがないので終わっていないポーズをとっている。終わっていないポーズをとっている人間は基本的に終わっているので、やはり例外なく。
厭世の感はない。髪の毛を猛烈に抜いたり爪を切ったり指を鳴らしたりしている。生が充溢している。今パソコンの横に、雨に濡れてぐしょぐしょになった大江健三郎の『同時代ゲーム』が置いてある。多分もう読まない。終わっている感。健気でありたい。私は貝になりたい。ただパルシェンでありたい。私は怖い二枚貝になりたい。
映画を観る。よく観る。映画は終わっていない。映画はずっと終わっていない。終わっていないコンテンツに触れても終わっていない人間にはなれない。
先日レンタルで『ミラクル・ニール』という映画を観た。
願いを唱え右手を振るとなんでも叶ってしまうという能力を得た主人公が、こうしてああして。というコメディ。笑わせ映画。
中で、チンコを大きくするというくだりがある。チンコよ大きくなれと唱え右手を振る。オモシロシーン。ユーモアのスパーク。
そういえば自分のサイズに不満を覚えたことがない。一番性に対して敏感だった中学生くらいの時でさえ、立派なれ、巨大なれ、などと願ったことがない。友人から回って来た下世話雑誌に載っていたチンコでかくしまっせの秘薬広告を読みつつ。結果としての絢爛な成功談を読みつつ。それでもサイズに対する不満を抱いたことなど。
そもそもいるんですか。いるのでございましょうか。チンコを?本当に?
極端な短小。向上心の強い色魔。果たして。
はておっぱいは。高校のときにバイト先の知り合いでおっぱいを大きくするマッサージ的な行為を中学時代から続けている子がいた。確かに胸は大きかった。非常に健気だ。全国の女子中学生はおっぱいを大きくするマッサージ的な行為をしていて欲しい。健気だから。健気な人間は基本的に終わっていない。
チンコを大きくという願いは健気ではない。謙虚さが足りない。
私はそんな願いなど、しかし銭湯に入る際にチンコを甘いじりする浅ましさと矛盾。
嘘のチンコ。噓も方便のチンコ。
ノンフィクションのドリルを見ると負けたと思う。あれが健気だ。
健気に生きたいと思う。ずっと思っている。思っているだけで終わっている。
骨折したい。骨折をすれば、少なくとも治療期間は健気に生きることが出来る気がする。痛いのは嫌だ。
ルルを飲んで寝る。その前に風呂に入る。ノンフィクションのペニス。ここは生が充溢している。