眼鏡と美少女キャラと三省堂書店
土曜のこと。山手線に乗って上野まで行く。先週作っていた眼鏡が仕上がったので取りに向かう。先週の自分と今週の自分は違う。何となく近場で作るよりは遠足気分を味わいたくて下町へ繰り出した先週は確かに気分がよかったが、それはもう過去の話で今週の俺は上野まで行くのが怠くて仕方がない。首を寝違えている。一日の疲れを取り除くはずの睡眠で身体を痛めている。阿保ちゃうんか。下町へ向かう。阿保、ちゃうんか。
KOOLと自殺
メンソールの煙草を買う。馬鹿じゃねえかと思う。KOOL。この世の終わりのように喉を刺してくるスースーが。スースーのやつが。メンソールは苦手だ。苦手を確認するために苦手をする。スースーを感じる。ヴェボラップを思う。あの薬は嫌いだった。ヴェボラップが嫌いだったのかヴェボラップを塗ってもらう時の体調の所為なのか。小学生のときヴェボラップを股間に塗っておほほほほほを感じた。その後やって来る痛みに悶えた。KOOLにはおほほほほほが無い。喉を刺す痛みしかない。ギルティ。ヴェボラップ。ノットギルティ。
KOOLを買うメンタル。何か満たされていない感覚。俺は何を欲しているのか。インターネッツ聞こえてますか俺はここにいるよの舞を舞うべきなのか。書き止しの小説が一章。この世はみんなゴミだぜWOW WAR TONIGHT、そうやってダンスばかり踊って毎夜を明かすことができたなら。しがみつく握力が足りない。たぶん女なのだ必要なのは。斯くの如くごまかす。どうかひとつ。
北海道から修学旅行で京都に来ていた女学生が電車に跳ねられ意識不明の重体になっている。警察は自殺の疑いが強いと見て調査している。どんなメンタルなんだ。人間がわからなすぎる。わからないがすぎる。わからないがすぎるので既ににわかろうとすることを諦めている。KOOLを吸ってくれ。女学生は。KOOLを吸うべきだ。自殺をする前にKOOLを吸って何故こんなものをと喉で感じて欲しい。人間と同じ位KOOLはわからない。救われろ。頼むから。そうあってくれ。
マカロンと鈴木雅之とリルラリルハ
生まれてから四半世紀経つ。年齢に対しての焦燥はそこまででもなく、ただひたすら寒い。もう冬なのではないかと思う。これが秋。もう冬なのではないかという感覚が秋。
この年齢になって初めてマカロンを食した。今までマカロンの存在を認めつつもそれから逃げて来た男が、先日『脳漿炸裂ガール』というボカロ曲原作の映画を観てからというもの日に日に募るマカロンに対する潜在的欲求を押さえきれず、ついに自分はマカロンを食すために生まれて来たのではないかという地点までいったところで、居ても立ってもいられなくなり深夜二時にファミリーマートに向かいそれを購入し胃に収め、そして僕の胃には今マカロンが在る。味がした。ひたすら甘かった。
四半世紀、という言葉を初めて耳にしたのは中学三年の時だった。四半世紀という字面はそれ以前にも見たことがあった筈だが、人の口から発せられるその言葉の発音を聞き取ったのが。鈴木雅之がテレビでシハンセイキと発音していた。鈴木雅之が鈴木雅之の声で。
当時「sakusaku」という番組がテレビ神奈川でやっていて、東京を住処にしていた僕の家庭にもテレビ神奈川の電波が浸食していたのでそれ見ていた。ありがてえ。「sakusaku」には木村カエラが出演していたから。その頃の僕は木村カエラが好きだった。マジか。木村カエラが好きだったのだ。今でこそ電波にて木村カエラを確認しても「これは木村カエラである」以上の感想は出てこないが、中学三年の僕はリルラリルハであった。リルラリルハのPVが流れている間に二回抜いたことがある。会社の有線は2000年代以降のジャパニーズポップをひたすら奏でていて時々リルラリルハが流れると中学の時の木村カエラに愛撫されている感覚に襲われる。グリーンバックで首を振り髪を掻き乱す仕草に。
「sakusaku」にゲストとして鈴木雅之が出演していた。木村カエラの隣にゴツいサングラスを掛けた色黒が座っていて、音楽に全く疎かった僕はただウケた。彼はラブソングを歌い続けて四半世紀と言った。そこにはリルラリルハが在った。そういう気概が欲しい。胃に収まっているマカロン。存在がマカロンに負けている。こんなリルラリルハが?
大江健三郎とノンフィクション・ペニス
最近、終わっている。最近という言葉の及ぶ範囲がどこまでなのかわからないが最近終わっているとずっと感じている。つまりずっと終わっている。終わっていなかったことがないので終わっていないポーズをとっている。終わっていないポーズをとっている人間は基本的に終わっているので、やはり例外なく。
厭世の感はない。髪の毛を猛烈に抜いたり爪を切ったり指を鳴らしたりしている。生が充溢している。今パソコンの横に、雨に濡れてぐしょぐしょになった大江健三郎の『同時代ゲーム』が置いてある。多分もう読まない。終わっている感。健気でありたい。私は貝になりたい。ただパルシェンでありたい。私は怖い二枚貝になりたい。
映画を観る。よく観る。映画は終わっていない。映画はずっと終わっていない。終わっていないコンテンツに触れても終わっていない人間にはなれない。
先日レンタルで『ミラクル・ニール』という映画を観た。
願いを唱え右手を振るとなんでも叶ってしまうという能力を得た主人公が、こうしてああして。というコメディ。笑わせ映画。
中で、チンコを大きくするというくだりがある。チンコよ大きくなれと唱え右手を振る。オモシロシーン。ユーモアのスパーク。
そういえば自分のサイズに不満を覚えたことがない。一番性に対して敏感だった中学生くらいの時でさえ、立派なれ、巨大なれ、などと願ったことがない。友人から回って来た下世話雑誌に載っていたチンコでかくしまっせの秘薬広告を読みつつ。結果としての絢爛な成功談を読みつつ。それでもサイズに対する不満を抱いたことなど。
そもそもいるんですか。いるのでございましょうか。チンコを?本当に?
極端な短小。向上心の強い色魔。果たして。
はておっぱいは。高校のときにバイト先の知り合いでおっぱいを大きくするマッサージ的な行為を中学時代から続けている子がいた。確かに胸は大きかった。非常に健気だ。全国の女子中学生はおっぱいを大きくするマッサージ的な行為をしていて欲しい。健気だから。健気な人間は基本的に終わっていない。
チンコを大きくという願いは健気ではない。謙虚さが足りない。
私はそんな願いなど、しかし銭湯に入る際にチンコを甘いじりする浅ましさと矛盾。
嘘のチンコ。噓も方便のチンコ。
ノンフィクションのドリルを見ると負けたと思う。あれが健気だ。
健気に生きたいと思う。ずっと思っている。思っているだけで終わっている。
骨折したい。骨折をすれば、少なくとも治療期間は健気に生きることが出来る気がする。痛いのは嫌だ。
ルルを飲んで寝る。その前に風呂に入る。ノンフィクションのペニス。ここは生が充溢している。