同じ靴を履いてる

生活について

ブレスオブザワイルドとゲームとオッサン

ブレスオブザワイルドがやばい。あまりにもやばいので、やばい以外の語彙が死んでしまっている。やばい。マジにやばい。ゲームっておい、今のゲームってもうこんなことになってんのかって少し調べたらブレスオブザワイルドは最近のゲームの中でも評判のいいタイトルみたいで少し安心する。こんなレベルのゲームがゴロゴロあるんだとしたら、逆に怖くなってしまう。

ゲームにはまったく疎いのだけど、ゼルダシリーズはこれで一応、結構やっている。ファミコン版のゼルダの伝説スーファミ神々のトライフォースゲームボーイの夢を見る島、ふしぎの木の実、64の時のオカリナムジュラの仮面ゲームキューブ以降はハード自体を持っていなかったこともあってできていないが、3DS時のオカリナムジュラの仮面のリメイク、それから神々のトライフォース2はプレイしている。

これまでやったゲームの中で僕は64ゼルダの2作品が一番好きだ。特に時のオカリナで初めてハイラル平原に踏み出したときの感動ったらない。どこまでも続いているようにも見える広大な大地、朝陽が昇り、時間経過とともに変化するグラフィックとそれに呼応するようにテンションが変わるBGM、日没後はスタルベビーが地中から這い出し襲いかかってきて、当時はそれが怖すぎて夜になると川に入水し、ただ朝を待つという時間があった。あっちに行けば何があるんだと平原をウロウロしているだけで楽しかった。ツクダオリジナル以外の3Dアクションゲームをやったことがなかったということもあり、何もかもが強烈にフレッシュだった。当時小学生だったという年齢的なアドバンテージもあって、もう今後、ストーリーやゲームの完成度云々は抜きにして、「ゲーム体験」として時のオカリナで受けた衝撃を超えるものはないんだろうと思っていた。自分、ある程度オッサンですし。

そしたらあった。あってくれていた。3年以上前に発売されていた。

本当にまったく予備知識なし、テレビCMをはじめとしたトレイラーすらお目にかかっていない状態で、ただSwitchを買ったからということで始めた。

ゼルダシリーズに限らず基本的に主人公の名前をデフォルト名ではなく自分の名前に変更して遊ぶので、ゲームを始める前は名前をひらがなにするかカタカナにするかで悩んでいた。ゼルダシリーズの世界観的にひらがなっていうのはちょっとなあ、しかし自分の名前をカタカナ表記にするっていうのも、またどうだろうなあ、なんて。そしたらオープニングムービーでゼルダ姫っぽい女性から「目を覚まして、リンク」なんて呼ばれちゃって。今にして思えばこの突然始まるオープニングの導入は最高に良いのだけど、その時点では名前を自分で決められないという衝撃の方が強すぎてガッカリスタート。

何か祠のような場所で目を覚まし、脳内に直接語りかけてくるタイプの声に導かれるまま外に出るとムービーに突入しタイトルバック。そしてこのムービーからタイトルバック、何の説明も無いままリンクを操作という一連が、直前に名前が自分で決められないことなんか全くの些事として吹き飛んでしまう、どころか、時のオカリナで初めてハイラル平原に足を踏み入れた時の衝撃に類していながら、完全なるアッパーコンパチというか、純粋な感動に思わず涙が出てしまった。美しい、興奮する、愛おしい、哀しい、その他諸々。何がどう語りかけてきているのか分からないほど濃密で豊潤な信号。やば。やばすぎる。ある程度オッサンになって、ゲームで、こういう体験できるんだ。つか、ゲームでしか成し得ない体験がこんなにも。やべー。

初めてのオープンワールド。明確なダンジョンや神殿もなく、ハートをとって回復するわけでもない。剣の代わりに木の枝や棍棒をぶん回し、斧で木を切り動物を狩る。ムジュラの仮面以降のゼルダシリーズはプレイしていないのでわからないが、側だけ見ればゼルダっぽくないのかもしれない。しかし、めちゃくちゃゼルダ。どこまでもゼル伝。何言っているか分からないかもしれない。でも、本当にそうなのだから仕方ない。初代ゼルダ、神トラ、時オカ、それぞれのタイトルにあったエッセンスが、この時代でできることとして正確に、大幅にアップグレードされている。だから馴染む。ゼルダシリーズとして馴染む。ジョースターの血くらいよく馴染む。

しかしこのゲーム、確かにものすごく没頭はできるのだが、没頭するがあまり、身体中がバキバキに痛くなる(自分でも無意識に物凄い首や腰を動かしてしまっている、ということに気が付いた)ため、一日ぶっ通しで、みたいな遊び方が身体的に出来ない。自分、ある程度オッサンなんで。

さて今後は。引き続き何の情報も得ずに、ただひたすら冒険を楽しもうと思います。

こういうゲームに出会えてよかった。すごすぎる。ありがとうございます。