同じ靴を履いてる

生活について

休日と過程と結果

何も予定の無い最高の週末。金曜の夜、仕事終わりにピカデリーで『ダンボ』を観た翌日の土曜、同じくピカデリーで『レゴムービー2』を鑑賞し、カレーを作ったりする。料理は得意では無いが好きだ。これとこれとこれを入れればその味になる。過程がはっきり結果に結びつくことに痛快がある。分かり易くて良い。但し料理の中途、このまま永遠に料理が出来上がらなければいいという気持ちもある。料理の過程そのものが楽しいので、それが終わることに対する物悲しさと、これまでの過程が単純に味として判断されることに対する詰まらなさと恐ろしさがある。それでも俺は飯を食わなくてはならないし、飯を食わなければならない以上作らなければならない。過程の内にいる間は居心地良いが、仕上げなければならない。何事においてもだ。美味かろうが不味かろうが。そういうことなんですよ。それが全部ですよ。出来上がったキーマカレーは美味かった。

そして本日。日曜日。前日の予報で晴れることはわかっていたので、朝は早めに起きて洗濯をし、桜も咲いていることだしどこか外にでも出ようかと考えながら昨夜床に就いたものの、朝起きたら8時半、ああちょっと寝過ごしてしまった感がある時間だ、と思いながらベットの中で愚図愚図していると二度寝をしてしまい結局10時起床。私のクールポコが餅をついている。そうしている間にも刻一刻、とりあえず洗濯。洗濯は良い匂いがするからありがたい。汚れた服が綺麗になるも良い。素晴らしい。但し取り込むのが面倒なのは、料理の出来上がりに対する名残惜しさと似ているのかも知れない。これを書いている現在も外に干しっぱなしになっている。家に帰るまでが遠足、取り込み畳み収納するまでが洗濯の気持ちを持つべし。1週間分になってしまった衣服類はそれなりに量がある。セックスのようなリズムで洗濯機が回る音を後ろに、YouTubeのトップページで私におすすめされている適当な動画見ながら1週間分が洗い上がるのを待つ。この時間が好きだ。採光面積が低く、やや薄暗い部屋の中でじっと仕上がりを待ち、今日という休日をどのように過ごそうかを思案しているこの時間が。自転車のベルや車の走り抜ける音、子どもの嬌声が聞こえる。端的な平和が満ちている。

結局どこへ向かおうか決まらなかったが、とりあえず外に出てみる。ウールのカーディガンにシャツで寒くない。暖かさに感謝。まだ陽の光は弱いが、これからだろう。本日迄の吉野家のクーポン券が財布に入っていることを思い出し、最寄駅の吉野家で牛丼小盛にクーポンを使用して得た無料の生野菜を腹に納め、さてどうしようどうしたい。そーりゃもうのってくべきでしょべきかなべきだよべきなのべきとも。春の陽気にそそのかされちまう。そんでもう行っちゃうか、なんて六義園。暫く行っていないし、ちょうど気候も良く桜のシーズンでもあるし。丸ノ内線、山手線を乗り継いで駒込、駅のホームで「六義園は南口になります」などというアナウンスが流れており迷う心配が無い。改札を抜け外に出るとすごい、人がたくさんいるし、その人々が皆六義園に吸い込まれていく。つか吸い込まれていかれようとして、チケット売り場の行列に誘導されている。園の側面を巣鴨方面に向けて行列が続いており、もう止めだ止めの気持ち。それにしても駒込自体久しぶりで、大学が文京区にあり、当時から散歩・散策が好きであったのでこの辺りも何度か歩いている。ひとまずは巣鴨方面に歩いてみる。いよいよ陽も照ってきており、ますます暖かい。散歩。何もなさを楽しむだけでそれ以上は何もない。無意識に没頭している。目に見えるすべてを目に収めてゆく。格好良い室外機、蔦に侵食された民家、人が住んでいるのか不明なトタン小屋、ぶりんぶりんの桜、そんなわけないだろというほど細い路地、突然現れる良い感じの公園、生きた化石のようなコインランドリー、巨大なサボテン、めちゃくちゃに自転車を漕ぐ児童、歩幅が15センチの老人、何も考えずに歩いている。ただなんとなく良い休日を過ごしているという実感だけがある。あるいは錯覚かも知れないが、それでもその錯覚を潔しとする心のスペースが確保されてゆく。それなりに俺も歳を取ったのかなと思う。刺激的な娯楽も良いが、このようにゆったりと流れる時と、何もなさを善き哉と噛みしめる心のゆとりを。しかし思い起こしてみると小学生の頃からこんなことをしていた気がするので、要するにただ散歩が好きなだけである。案外に存在していない。してくれていない。皆目的を持って道を歩いており、その目的を全うするために歩を進めている。六義園がいかに並んでいても、六義園に入園するという目的をもって家を出たのであれば、やはり入園を果たすのだ。私もそうであったならもう少し人生がラクになるのかも知れないという気持ちと、目的を持ち目的通りに事が運んでたまるかという気持ちが相克している。だから答案の留保として、だらだらと適当に歩いている。

夕刻部屋に戻る。読み止していた小説を読んでいると、夕方のチャイムが流れる。中野区のチャイムはドヴォルザーグの家路である。実家の東久留米市では夕焼け小焼けが流れていた。17時。部屋は相変わらず薄暗いが陽光はまだ残っている。昼がもったいないので再び目的もなく自転車にまたがり、周辺を彷徨する。夕焼けが綺麗だった。異様な寂しさを休日が終わる億劫さにすり替えてみるが上手く嵌らない。1日の終わりは平日も休日も平等に寂しいものなのだ。

酒を飲みながら、テレビを見ながら、文章を書いている。何もない。何もない文章を書いている。但し明確な結果だけがある。ブログが更新される。私は洗濯物を取り込む。